住職のつぶやき
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凋落(くさきがしおれ落ちること)
最近、「エンデングノ−ト」、「終活」など、自分の人生の最後を自分らしく終わりたいと言う人が多い。
そして、遺影写真は、この写真。葬儀はこのようにと色々考える。
でも、本当は葬儀や写真の問題ではなく、私の心の拠り処が問題ではないでしょうか?
暑かった夏が終わり季節はすでに秋になった。
長い夏は、紅葉すらもいつもの年より遅らせ、木々の葉の変化も長く愉しませてくれた。
それでも、寒波の影響か、街中の紅葉は足並みを揃えるように、いっせいに落ち始めた。
季節の変わり目、わかっている事ながら、急に寂しい気持になっていく。
そんな時、石垣りんさんの詩、『用意』にふれた。
『用意』
それは凋落(ちょうらく)であろうか
百千の樹木がいっせいに満身の葉を振り落とすあのさかんな行為
太陽は澄んだ瞳を
身も焦がさんばかりに灌ぎ
風は枝にすがってその衣をはげと哭くそのとき、りんごは枝もたわわにみのり
ぶどうの汁は、つぶらな実もしたたるばかりの甘さに重くなるのだ秋
ゆたかなるこの秋
誰が何を惜しみ、何を悲しむのか
私は私の持つ一切をなげうって
大空に手をのべる
これが私の意志、これが私の願いのすべて!空は日毎に深く、澄み、光り
私はその底ふかくつきささる一本の樹木となるそれは凋落であろうか、
いっせいに満身の葉を振り落とす
あのさかんな行為は―私はいまこそ自分のいのちを確信する
私は身内ふかく、遠い春を抱く
そして私の表情は静かに、冬に向かってひき緊る。
石垣りんさんは
実りの秋、1年の成長の証を得るのがこの季節に、葉を落として落葉の意味を問いかける。
それは、落ちぶれでもなく衰えでもなく、厳しい冬へむけて、それを乗り越える覚悟を決める。そのことを「用意」をする、とあたたかい春に向けての用意と表現しているのだと思う。
それは、力強く、そして誇らしげに生きる宣言といる意思表示ではないだろうか。
秋
ゆたかなる秋
誰が何を惜しみ
何を悲しむのか...
「何を惜しみ、何を悲しむ事があるのだろうか」と「用意」されていればこその言葉です。
それは次なる世界に生まれていく「用意」ではなかろうか。
エンデングノ−ト。終活。
浄土(仏さまの世界)の旅立ちです。
住 職
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