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「なむ」は平成2年から毎月発行している福住寺の寺報です。
月報「なむ」
2024年6月
煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり
(親鸞聖人 高僧和讃)
このご和讃は、親鸞聖人が書かれた高僧和讃の中の一首であります。私たちは煩悩に目をおおわれて、私を救おうとしてくださる阿弥陀様の光明を見ることが出来ない、しかし、大悲の阿弥陀様は決して諦めることなく、常に私を照らし救おうとして下さっているとうたわれています。このお言葉を残された親鸞聖人は、自らのことを「愚禿釈親鸞」と名乗り、その名乗りのもとに生涯を送ってこられました。愚禿の愚とは「おろか」という意味です。これは親鸞聖人自らも煩悩に溢れて生きている存在に他ならないことを表しているのでしょう。親鸞聖人は9歳で得度をされたあと比叡山に上られて20年間にわたる厳しい修行の日々を過ごしてこられました。しかし、いくら修行に励んでも煩悩を断ち切ることはできませんでした。この時の聖人のお姿は煩悩にまみれ自分の思いや都合に振り回されながら悩み苦しんでいる今の私の姿と同じであったのではないでしょうか。しかし、一つ違うのはその後の人生で親鸞聖人は阿弥陀様のお働きに出遇われたということ。自分の力では煩悩を断ち切り変わることのできないのがこの私であり、そんな私こそを救いのお目当てとされ、煩悩具足のそのままの姿でいいと働いて下さる阿弥陀様に抱かれ、その真実を知ったのであります。親鸞聖人にとっての「愚禿」とは、阿弥陀様のはたらきによって知らせていただいた本当の姿、自らが愚かな凡夫であったと自覚しそのうえで自らを振り返りながら生きていくことを確かめる言葉であったのではないでしょうか。
福住寺では6月10日に開教記念日と合わせ親鸞聖人降誕会が勤まります、聖人が生涯をかけて慶ばれた阿弥陀様の働きを頂きながら聖人のご誕生をお祝いさせていただきましょう。
June 2024 Issue