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「なむ」は平成2年から毎月発行している福住寺の寺報です。
月報「なむ」
2022年11月
「正しさ」とは「善人」とは
最近、インターネットのツイッターを見ているとこんな「つぶやき」を目にしました。
「話し合い」をして妻に「私が悪かった」と言わせることに成功した時、自分が正しく、相手を責めることの可能な立場に立つ感覚は、快楽でした。
そうでしょ!? 僕が正しかったんじゃん。
ああこの時間の全てが無駄だった、最初 から僕の言う通りにしたらよかったのに、 馬鹿らしいと詰った。
えいなか @EiNaka_GADHさんのツイッター
みなさんはこの「つぶやき」を見てどう思われたでしょうか? 他人との議論で、自分の主張が通った快感や嬉しさに共感できるのではないでしょうか? また、えいなかさんのように議論の時間が無駄だった。と感じることに覚えはないでしょうか?
解釈の幅がある場面で自分の解釈の正しさをひたすらに主張し、それに同意「させた」。
(中略)
妻は決して同意していたわけではなかっただろう。ただ「話し合い」を終わらせたかった。話が通じないのだから、ただ苦しいだけ。
私はこの続きの「つぶやき」を目にした時、だからえいなかさんは「馬鹿らしいと詰った。」と書かれたのか。と、猛烈に内省している姿を想像しました。
思い返してみますと、「話し合い」とは、お互いの思う「正しさ」をぶつけ、あるところは共感し、あるところは妥協しながらもお互いのちょうど良い所を探ることです。
しかし、議論が白熱すると、どうしても相手の意見をないがしろにし「間違っている」と決めつけ、自分の「正しさ」を主張して勝ち負けや善悪を区別してしまいがちです。常に正しく、悪を許さず、正義感に満ちている人は本当の善人でしょうか。真の善人は他に寄り添うことのできる人だと思います。
November 2022 Issue