福住寺

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月報「なむ」

2014年

1年の締めくくり 除夜の鐘

2014年12月

大晦日、1年の締めくくりに除夜の鐘が撞かれ、しっとりと静まり返った深夜に、ゴーンと鐘の音が響き渡ります。一般に「鐘は108回撞く」と言われますが、それは仏教において、人間が持つ煩悩が108つであることに習っていると考えられます。しかし、人間の持つ煩悩は果たして108つなのでしょうか。108の数の由来は様々ありますが、どの説も総じて「とても多い」ということを表すのです。ですから、私たち人間にはとても多くの煩悩があるということを表すために、108と数えるのです。

親鸞聖人はこのような和讃をしたためられました。
【和讃】 
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ
【意味】
(み教えは)無明の長い夜を照らす灯火です、
(私には) 智慧の眼がないと悲しむことはいりません。
(み教えは)迷いの海を乗り切る救いの船です、
(私たちは)煩悩の罪が重いと嘆かなくてもよいのです。

この和讃は、仏さまのみ教えを灯火とし、その明かりは私をみちびく明かりであると教えてくれます。除夜の鐘の音も、この私をみちびく「み教えの音」とも言えるかもしれませんね。

鐘の音を聞くと煩悩が洗い流されるという誤解もあるかと思います。しかし、その音を聞きながら、我が身の煩悩を省みて、1年の自分を反省し、その私をみちびいてくれる仏さまがいると感じさせていただくところに、浄土真宗の味わいがあるのではないでしょうか。

どなた様も、福住寺の除夜会へ、どうぞご参加下さい。

失って気がつく「あたりまえ」の発見

2014年11月

8月19日夜から20日未明にかけて、広島市を中心に局地的な集中豪雨の土石流による土砂災害があり、多くの方々が犠牲となりました。

9月10日には、石狩地方で明け方を中心に雷を伴う非常に激しい雨が降り、大雨特別警報が発令され、札幌市内約35万世帯、約70万人に避難勧告という驚くべき事態になりました。災害の少ない、住みやすい町と言われる札幌市において、これほど大規模な避難勧告は聞いたことがありません。

その翌日には、江別市内で約3万4千世帯の大規模な断水。集中豪雨による川の水の濁りが急上昇し、浄水処理能力を上回ってしまったそうで、役所等の給水所では、水を求めて多くの方々が列を作りました。断水は、蛇口をひねると水が出る有難さを教えてくれます。

そして同月27日、快晴のお昼時、長野県と岐阜県の県境に位置する御嶽山では突然の噴火によって50名を超える多くの尊い命が失われました。その後、大型台風による様々な被害も発生しています。また、日本列島いつどこで大きな地震に襲われるか分からないのです。

今年は全国各地で災害が多く起きているような気がします。様々な災害は、あらゆるものを奪い、人間の無力さを感じさせます。私たちは経験をしなければ自分自身のこととして受け取ることは難しいのかもしれません。あらゆるものを失って、初めてその大切さに気付いていく。そんな時「もったいない、節約しよう、大切に使おう」などという思いが起るのではないでしょうか。

災害によって身近で大切な方を亡くすと、いのちがあるのが当たり前だとは言えなくなります。それは、当たり前ではなく、有ることの難しい、有難い私のいのちに目覚めさせ、あらゆるつながりの中に生かされていることを気付かせます。

悲しくて辛い現実は、自己中心の心を離れて、優しさや思いやり、感謝の心を育てて下さるのではないでしょうか。年を重ねてなお、仏さまの心を中心とした見方をいただき、新たな発見に感動するような、味わい深い人生を送りましょう。

『いのちの言葉』豊島学由

冥福(めいふく)は祈らない

2014年10月

あるお寺のご門徒さまが「浄土真宗では通夜・葬儀に際して『ご冥福を祈る』という言葉を使わないと聞いたのですが、それはなぜですか?」とご住職にたずねられたそうです。住職は「それは、亡くなった方々に、ご冥福をお祈りする必要がないからです。それには理由がございます。例えば『冥福』の『冥』の字をご覧になられてどういった印象を受けられるでしょうか?」ご門徒さまは「う〜ん、どうもイメージが湧いてきませんね。しいて言うなら何か暗い印象を抱かされる字のように感じます」と率直な思いを答えて下さり、住職は次のようなお話をなされたそうです。

「実は『冥福』の『冥』を辞典で調べてみると「暗い」という意味があると説明されてあります。しかし阿弥陀様のお浄土は暗い迷いの世界ではなく、光に満ち溢れたさとりの世界であるとお経には説かれてあります。お念仏の教えをよろこばれた先人やご先祖の方々は亡くなると直ちに阿弥陀様のお浄土へ、往き生まれておいでです。ですから、浄土真宗ではご冥福をお祈りすることはないのです」するとご門徒さまは「なるほど、そんな理由があったのですか。私達が普段何気なく使用している言葉には、はっきりとした意味を理解せず使っている言葉が沢山あるのかもしれませんね。私も早速子供達に『この世に縁尽きて、父さんが亡くなる時がきたならば、その時は阿弥陀様のお浄土に生まれさせていただくのだから、冥福を祈る必要はないからな』と伝えておかなければなりなせんね」と話されたそうです。

浄土真宗では『往生(おうじょう)』すなわち「お浄土に往(い)き生まれる」という言葉を大切にさせていただきます。先立たれた大切な方々は、お念仏のみ教えにいだかれながら、あらゆる闇を打ち破る阿弥陀様の限りない光明(こうみょう)のはたらきによって、どのような煩悩も功徳へと転ぜられるお浄土へと往き生まれさせていただけるのです。

『拝読、浄土真宗のみ教え』より

願いのなかに生かされて

2014年9月

私たちは、どうも目に見えるものだけを確かなものととらえる性質があるようです。もし、そうであるならば逆に目に見えないものは存在しない事になります。しかし、目に見えないものであっても、確かに存在致します。たとえば、風がそうでしょう。風は目にみることが出来ません。しかし、ゆれる木々や、風鈴の音に確かにそこに風が吹いていることを実感出来ます。そしてただ外から木々の揺れを眺めるだけでなく、風鈴の音を聞き入る事によってただ見ているよりも風の働きを実感出来る事が出来ます。

こうした目に見えない働きは他にもあります。「人のやさしさ」「親の願い」などの言葉がそうでしょう。子を持ってはじめて親の苦労を知ったということがあるように、ほんとうに優しさがわかるというのは、人の優しさに触れてみてはじめて実感するものではないでしょうか。

阿弥陀様の働きである本願力(願い)もこれとおなじ面があるのでしょう。「おはたらき」自体が目に見えるわけではありません。だからといって存在しないと言うことではありません。

私の願いは自分の幸を願うものが主となり、又、親の願いとしても子の幸を願うものでしょう。でも親を殺す子、子を見捨てる親の出来事を聞く度にこれすらも疑わしく思えてなりません。しかし、仏様の願いは「私たちを浄土に往生させ必ず仏に成らしめよう」という阿弥陀様から私に向けられた救いの願いなのです。姿や形はみえないけれど確かにそこにある。私たちに至り届く仏様の救いのはたらきを聞かせていただきましょう。

病気になるということ

2014年8月

病気になりたくないと思っていても、思い通りにはいかないことが多いものです。体調の異変に気づいたとき、すぐ病院で診察を受ける方もいれば、我慢をしてしまうこともあります。

できれば病院には行きたくないけれど、高齢になればなるほどに、重い病気になることが多いのではないでしょうか。もしも、大切な方が重い病気になったり、お医者さんから余命を宣告されたとき、何ができるのでしょうか。

重い病気であると診断され入院をし、点滴や酸素などのチューブを付け、時には吐き気などで、体がとても辛いときがあります。家族の入院に、その周りの人にも影響が出ます。一人暮らしをせざるを得なくなったり、毎日のように病院へ通わねばならなくなったり、また、様々な治療の方針に同意をするなど、厳しい判断を迫られることもあるでしょう。重い病気で入院するということは、本人はもちろんのこと、周りの家族の抱える苦悩は大きいといえます。

病院のお医者さんは、余命を宣告し、残念ながらいのちを見捨ててしまいます。そういう私も同じです。この世で会えるのはあと数か月であると聞いても、何もしてあげることができず、寄り添い続けることはできません。

「苦悩の有情をすてずして」とはたらく、阿弥陀如来さまだけは、絶対に見捨てずに、病気の悲しみ、すべての苦しみを共に背負ってくださるのです。苦悩が深ければ深いほどに、思い通りにいかない時こそ、そのはたらきが、たのもしく感じられます。

親の願いに生きること

2014年7月

「報恩」とは恩に報いることであり、一般的には「恩返し」といった意味で用いられたりします。では「報恩感謝のお念仏」を称えるとは、阿弥陀様が「恩を返せよ」と恩着せがましく言っておられるからでしょうか。そうではありません。念仏を称えることが、そのまま「報恩」となるのです。

「恩返し」のイメージをたとえると、親孝行をしようとした子供が両親に海外旅行をプレゼントし、それを喜んでくれたならば恩返しになるかもしれません。ところが、両親が飛行機に乗ることが苦手だったとしたらどうでしょう?そう考えた時、何が一番の恩返しとなりうるでしょうか。それはやはり、子供が親の願うような生き方をすることではないでしょうか。阿弥陀様の願いとは、罪業を重ね、生死に迷い、自分自身では迷いを超えていくことのできない私たちに「そのままのあなたを必ず救うから、この私をたよりにしておくれ」「どうか念仏を称える身となって、浄土に往生する道を歩んでおくれ」と願っておられるのです。その願いの意味を知り、それに応え、お念仏の人生を歩ませてもらうことが、そのまま「報恩」となるのです。

《『拝読・浄土真宗のみ教え』より》

私の歩む先

2014年6月

「地獄」という言葉をどのようにお考えですか?「科学の時代に地獄?あるかどうかもわからない」と言うかもしれません。しかし、地獄という言葉に向き合った時に、有る無しの議論をする事は、重要とは思えません。それは、そこに「私」という主体が抜けているからです。「私にとって地獄とは」と考えないことには、いくら地獄の事を議論したとしても意味がないのです。

こんな話を聞いたことがあります。「地獄の反対は何ですか?」という質問に対して、多くの人は「極楽やお浄土」と応えるでしょう。しかし「地獄の反対は無関心」と答えた方がいたというのです。きっと、この方は地獄を「私にとっての地獄」と捉えていたのかもしれません。地獄の反対を「お浄土」ではなく「自分自身の歩む先に関心がない」ということで「無関心」と答えたのかもしれません。

私たちは、他人のことは知りたがるものですが、自分自身にも関心を向けているでしょうか?振り返りますと「何のために生まれ、私の居場所は?どこへ歩んで行こうとしているのか」と考えることが少ないように思います。

親鸞聖人は「いづれの行もおよびがたき身なれば、地獄は一定すみかぞかし」(どのような行も満足に修めることのできない私には、地獄以外に住処はないのである)『歎異抄』と仰せられました。ただ日常に流され、いのちのふれ合いを忘れ、他のいのちを利用し、踏み台にしている私たち。ましてや、地獄に堕ちないための行など修めることのできない私たちです。

自らへ関心を向け、自らに問いを持ったときにこそ、「地獄」とはまさに我が有り様であったと気づき、歩むべき方向・生きてゆく方向は、「お浄土」だと知らされるのではないでしょうか。

空しく終わらぬ人生

2014年5月

私たちは、日々年を重ね、老いていかなければなりません。健康を気遣いながら生きていても、病気を得ていかねばならない時もあります。足腰が弱くなって、思い通りにならない自分の体を情けなく思い、今まで出来ていたことが、出来なくなるという悲しみは、その年代になって初めて経験することなのかもしれません。

誰もが「こんなはずじゃなかった」と嘆き悲しむ時があるのではないでしょうか。それは、老若、大小、長短、損得など、あらゆる事柄を比較して考え、自分の都合によって、いいとか、悪いを判断するからなのでしょう。

しかし、お念仏は、私を浄土へ生まれさせ仏に成らせる、死後の救いを定めたうえで、今・ここ・私に、はたらいて下さっています。それは、自己中心的な心を反省させ、できるとか、できないなどを超えて、どのようないのちも、等しく尊いものであると受け止めさせ、悲しみを抱えたまま、居場所を与えて下さるのです。

そしてそれと同時に感謝の心を育て、よろこびを与えます。感謝の心が身に具われば、あらゆる人間関係、信頼関係は、いい方向へ向かうのではないでしょうか。

お念仏と共に「こんなはずじゃなかった」という思いが「人生ってありがたいよねえ」とか「いい人生だった」と慶べた時、私の心の中に、浄土が開かれていくと言えるのではないでしょうか。

何でもすぐに忘れてしまう私だからこそ、感謝の心を育む積み重ねが大切です。お参りを大切に「空しく終わらぬ人生」を送りましょう。

お浄土の方角ってどっち?

2014年4月

仏典には、阿弥陀様のお浄土は、なぜ西の彼方にあると説かれるのでしょうか。それは、東から昇る太陽は人生のはじまり、西に沈む太陽は人生の終わりを象徴していると捉えることができるからです。

大阪の四天王寺は創建当時、門前のすぐそこまで海があり、西門のあたりから、その中に沈んでいく夕日を見ることができたそうです。平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した歌人・藤原家隆は、晩年に死期が迫ってきたことをさとり、四天王寺の近くに移り住み「夕陽庵」と名づけました。そこから西に沈む夕日を見て「西方極楽浄土」に思いを馳せたと伝えられます。しかし現代の科学的立場から「本当に西の彼方に浄土があるのだろか!?」と考える人も少なくないかもしれません。確かにこの地球上で、ひたすら西に進んでいったとしても、地球を一周するだけです。あるいは、ロケットに乗って真西にまっすぐ進めば、この地球を離れて宇宙に飛び出しますが、そこをずっと進んでもお浄土があるとは思えません。こうして考えてみますと、科学の発達した現代においても、お浄土に乗り物で行くことはできませんし、望遠鏡で観測したり、科学的に証明することもできません。だからといって「浄土なんて仮想の世界」と考えるのは、人間の論理にすぎないのではないのでしょうか。

お浄土は人間のはかり知ることのできない世界です。しかしそれでは、どの方角に向かって手を合わせればいいのかわかりません。だからこそ阿弥陀様は「西方」だとお示しくださったのです。お浄土の方角はこの世の西というのではなく、お浄土に思いを馳せる私達が迷わぬよう導くために定められているのです。阿弥陀様は尊い大悲のお心で、太陽が沈むことで命の終わりを象徴する「西方」から、「心配ない、我にまかせよ」と呼びかけられているのです。「西方極楽浄土」に思いを馳せる時、本来人間が定めた方角などという定規では推しはかることなどできない、真実の世界であるお浄土へと導いて下さる阿弥陀様のお心を、皆さんと共々に味わわせていただきましょう。

《『拝読・浄土真宗のみ教え』より》

私達が人生でしてはならないことは 人生を途中で投げ出すことです

2014年3月

紙には表と裏があるように、私たち人間も出来る事と出来ない事とが表裏一体となった人生を過ごしています。

この世で完璧な人生を過ごした人などそうは居ません。たとえ人生の現実が不満足、不本意なものに思えても「今」「ここ」に与えられた人生を大切にし、出来ないことはお互いに助け合い、出来る事を精一杯にして生きていくしかないのです。日常、私たちが持つ不足感は、何か満ち足りないという日々の繰り返しから出てくるのではないでしょうか。

大切なことは自分を見つめ直し、自分を卑下せず捨てないと言うことなのです。

仏教においての人生とは、何かを成し遂げてはじめて意味を持つものではありません。なすべきは課題の解決ではなく、その課題から目を背けずに問い続け、担い続けることです。

時として人間は我ままな生き物ですが、人生はなかなか思い通りにはいきません。確かなことは、一人では何も出来ない人の痛みに気付くことすら出来ないこの私が、あらゆるいのちとつながりあい、支えられて「今」「ここ」に生かされていると言うことなのです。

何の為に生まれて 何をして生きるのか

2014年2月

国民的ヒーロー、正義のみかた「アンパンマン」といえば皆さんよくご存じの方が多いと思います。テレビやおもちゃ等、長年にわたり私たちを楽しませてくれています。

作者で漫画家の「やなせたかし」さんは昨年10月に94歳で亡くなられました。小さい頃に両親と別れ、そして過酷な戦争に出征し、飢えの苦しみ、争いの悲しみなどを経験された方です。

有名な「アンパンマンのマーチ」の歌詞には、「そうだ!嬉しいんだ生きる喜び、たとえ胸の傷が痛んでも」という喜び中の悲しみ、「何の為に生まれて 何をして生きるのか」という生きる問い、「時は早く過ぎる 光る星は消える」という世の無常、そして「行け!皆の夢守る為」という人を助ける活動など、ご自身の苦悩を通して考えさせられる大切なことがあらわされていると思います。

自分の顔を人に食べさせて助け、生きる勇気や元気を与えるアンパンマン。その歌は、現在も苦悩の多い厳しい生活を送っている東日本大震災の被災者を元気づける曲として親しまれています。

仏さまのはたらき薫るアンパンマンの世界と言えるのではないでしょうか。

親鸞聖人は「本願力という仏さまの救いのはたらきそのものである南無阿弥陀仏の名号をいただく時、むなしく過ぎることのない、慶びの人生を与えて下さる」と讃えられました。そして「そのはたらきは、宝の海のように身に満ち溢れ、たとえ煩悩まみれの私であっても、救いのはたらきの妨げにはならない」と示されました。

本願力に出遇う為に生まれさせていただき、支えられ、導かれて、報恩感謝のお念仏を称えつつ力強く生き抜いていくことを勧めて下さいます。

さわやかな「いのち」に

2014年1月

昔から、「元旦や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と歌われてきましたが、これは一体どういうことなのでしょうか。お正月には、お屠蘇(とそ)を飲んで新たな年の始まりをお祝いしたりいたしますが、お屠蘇の「屠」は葬(ほうむ)る、「蘇」は甦(よみがえ)るという意味です。つまりこれは私達が古き悪しきものを滅(めつ)し、新たな心で新年を迎える事ができたよろこびが「屠蘇」という言葉に表われています。

同時にその心を新たな一年の生活姿勢にしたいという願いもあります。門松は本来、竹と梅も添えますが、やはりその心も「めでたくもあり、めでたくもなし」に通じているのではないでしょうか。

松は永遠の「縁」つまり、いつまでも変わらない姿を表し、竹は清い正しさ、梅は寒さや雪に耐え苦しみを乗り越えないと花の咲く人生はおとずれない事を表しています。お正月の行事や飾り付けは、過去の過ちを正し、新たな気持ちで歩みたいという私達の心の表われです。

現代社会のなかで、私達の欲望は日々年々、肥大化の一途をたどり、現実との落差は広がるばかりですが、新たな年を迎えさせていただく中で「屠蘇」や「門松」にこめられたおもいにふれ、さわやかな「いのち」につながるお念仏生活を皆さまと共々にすごさせていただきたいものです。

《真宗法要法話大辞典より》


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